我的愛球史 第24話 代打の神様
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こじっく
2010年09月05日 10:12 visibility348
1990年の阪神タイガースは弱かった。
しかし、そんな中でも、僕らの胸を躍らせてくれる選手は確かにいた。
広島市民球場でのシーズン開幕戦は、岡田彰布選手の2本のホームランと中西清起選手の完封で、完璧なゲームだった。
その後、岡田選手はしばらくホームラン、打点のトップを走りチームを牽引した。
甲子園での見事なサヨナラホームランもあった。
だが、故障を抱えながら戦う岡田選手の失速とともに、チーム状態も下降線。
気がつけば順位も最下位。
それでも、この年、僕ら阪神ファンは最後まで楽しむことができた。
掛布雅之さん以来、久しぶりの日本人ホームラン打者がチームに現れたからだ。
しかも、掛布さんと同じホットコーナーの選手。
その選手こそ八木裕選手だった。
前年の89年途中からレギュラーに定着し16本塁打を記録。
90年は開幕からもちろんレギュラーで快打を飛ばした。
岡田選手が調子を落とす中、巧打者タイプの和田豊選手とともに打線を支えた。
シーズンが進んで、八木選手のホームランの数が20本を越える頃、僕らファン誰もが30本越え、そして現実には厳しいことも分かりながら、さらに調子を上げてのホームランキング獲得を期待した。
結局、30本越えはならなかったのだが、それでも28本塁打は見事な結果だった。
打率(.250)の低さと打点の少なさ(66打点)は気になったが、打点は前にランナーがなかなか出ないのだから仕方ない・・・!?
翌91年こそはホームラン王の獲得を!
虎ファンの誰もが望んだ。
それには訳があって・・・92年から甲子園のラッキーゾーンが廃止されフィールドが広くなってしまうからだ。
そうなると、阪神からのホームラン王は絶望的・・・と当時僕らは思っていた。
最後のチャンスだ・・・八木選手、頼む!!
僕らはそう思って応援していたが、誰よりも阪神からのホームラン王を意識していたのは恐らく八木選手本人で、力が入りすぎてしまったのだろうか?91年はホームラン数を減らしてしまい22本塁打に終わった。
優勝争いした翌92年が21本塁打。
この3年が八木選手のピークだった。
その後徐々に出場機会が減っていき、96年にはついに1軍出場なし・・・というどん底状態。
しかし、97年に3度目の監督就任を果たした吉田義男監督に代打としての適性を見出され、その後の活躍はもはや語るまでもないでしょう。
見事「代打の神様」として他球団からは脅威の的、ファンからは畏敬され、チームメートの人望を集める存在になったのです。
阪神タイガースの代打の切り札の系譜を見ると、川藤幸三さんを見ても1973、1974年は俊足強肩の遊撃手として一軍で活躍(両年とも9盗塁を記録するが打率は意外にも2割前後、ホームランは74年に1本あるだけ)、真弓明信さんに至っては「史上最強の一番打者」だったわけで、最初から代打で名を馳せたわけでなく、現役の後半にその役割をい任され、ついにはそれを極めるまでに到達したと見るべきでしょう。
川藤さんは現役最後の86年に自己最高のシーズン5本塁打を放ちオールスター出場、真弓選手も現役を退く前年の94年に代打だけでシーズン30打点の日本記録を樹立しているのはすごいこと。
まさに年齢とともに代打として成長を遂げた・・・と言って過言でないと思います。
八木選手は2004年の現役引退まで400打席を代打し94安打13本塁打の98打点。
この成績をどう見るかは難しいところですが、代打として実に勝負強く、記憶に残る名選手であったことに異を唱える人はいないのではないでしょうか。
選手としてピークを過ぎて、後輩に追い抜かれたり、外国人選手にポジションを奪われてしまっても、自分の新たに求められる役割を理解して研鑽に励めば必ず新境地を開き長く活躍することができる・・・八木選手をはじめ、阪神の歴代の代打の切り札を勤めたみなさんの活躍が雄弁にその真実を語っている気がします。
最後に・・・現在の代打の切り札、桧山進次郎選手にはさらに頑張って長く現役を続けて頂きたいものです。
(写真はマイバットです)
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