我的愛球史 第15話 南海ホークスは浪花のロマン
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こじっく
2010年07月17日 14:20 visibility371
1988年のプロ野球で忘れてはならない事件といえば、南海ホークスと阪急ブレーブスが経営権をそれぞれ、ダイエーとオリックスに譲渡したことです。
奇しくもこれは昭和と言う大きな時代の終わりを、プロ野球の世界でも象徴する出来事になってしまいました。
南海の経営権譲渡については夏ごろから週刊誌の見出しにちらほら出ていたように記憶しています。
「九州のバースは身売り南海へ」
当時話題になっていた福岡第一高校のスラッガー山之内健一選手の進路に関してこんな見出しが甲子園大会の直後に出ていた記憶があります。
そして、ついに一般紙の紙面にも「南海ホークス」は今年で最後になるかもしれないという話題が出始めました。
南海側は最初は否定・・・しかし、一般紙に話題が出た時点で事態が大きく動き出していることは誰の目にも明らかでした。
そして、ついにダイエーへの経営権譲渡と福岡への移転が明らかにされます。
僕らの間でにわかに南海ブームが起きました。
まず、南海の球団マスコットのシールを学校に持ってくる友達がいると
「くれ!くれ!」
と人だかりができました。
みんなが南海ホークスの試合結果に注目するようになり、同時に1人の選手へ熱烈な声援を送るようになりました。
門田博光選手・・・。
熟年の星・・・と呼ばれた門田選手は40歳にしてホームランと打点の2冠王に輝く活躍。
豪快なスウィングから放たれる打球は高い放物線を描いて大阪球場のスタンドへ。
この光景がテレビで流れるたび、僕らは興奮しました。
門田選手は丁度僕らの父親ぐらいの年齢だったので、僕らはそこに自分のお父さんが活躍しているような姿を投影することができました。
南海ホークス最後のホームゲーム。
近鉄との白熱した試合。近鉄も優勝をかけて必死の時期でしたので、近鉄選手に一切の感傷は無かったと思います。
シーソーゲームを繰り広げ、最後南海の岸川勝也選手の決勝ホームランが飛び出し、抑えの井上祐二選手が締めくくってゲーム終了。
杉浦監督の
「南海ホークスは不滅です。行って参ります」
の挨拶。
球団旗を持って球場を一周。満員のファンの声援に応える南海ナイン。
プロ野球史上、最上級の名場面のひとつだと思います。
僕が物心ついたときから南海は弱くて、正直、周りに南海ファンはほとんどいませんでした。
図書館で読んだ子供向けの野球の本でも、勢いのあった西武の選手が表紙を飾り、安定した人気のある巨人の選手紹介にカラーページがさかれ、ホームラン打者阪神掛布選手の特集が載る・・・という構成を覚えています。南海の選手は12球団紹介の最後に香川選手の笑顔がちょこっと載ってるぐらいの扱いであったことを記憶しています。
しかし、南海ホークスはこんなに愛されていたんだ・・・僕は自分の不明を恥じるとともに、貴重なものを見過ごしてきたことを後悔しました。
それはプロ野球草創期から受け継がれてきた日本プロ野球の味、そのものだったと思います。
自転車で球場に通えるような地元中心のファンに支えられ、少年たちの見本になるような最高の技術をグランドで見せる。
テレビへの露出が少なくて広告媒体としての価値が低くても、日本に12しかないプロチームの一つとしての誇りを胸に、東京や福岡のチームと堂々と張り合う。そして兄弟の様な同じ関西のチームと鎬を削る。
今考えてもワクワクするような野球世界。
こいうった世界が失われたのは本当に惜しい。
しかし、今のプロ野球の球団の多くも地域密着を理念に活動し、大きな支持を得ていると思います。そう考えると、「惜しむ」とか「悲しむ」とかいう言葉はそぐわないのかもしれません。ホークスもライオンズもかつての伝統に敬意を表してくれていると思います。
昔のプロ野球の試合映像と今のそれを比較すると、その熱さは不変ながら、プロ野球の行われている空間全部がスマートになってきているし、ベタな言い方をすれば洗練されていると感じます。
それでも、僕は昔の大阪球場や藤井寺球場の映像を見るとき、何ともいえない郷愁を感じます。
僕が大学野球を球場に出かけて見るのが好きなのも、その雰囲気が好きだからかもしれません。
僕は、もし子供ができたら「南海ホークス」の話をすると思います。こうして、かつての古きよきプロ野球の歴史を次代に語り継いでいくことが野球ファンの役割なのではないかと思います。偉そうにすみません。
最後に永井良和「ホークスの70年 惜別と再会の球譜」、素晴しい本でした。図書館で借りて読んで感動しました。永井先生ありがとうございました。
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