☆7月4日 きょうの伝統校~松山高校~

 

半農半商の松山町を比企の教育文化及び商業の中心都市に発展させようと、松山町の青年会が起ち上がり県立中学校と鉄道の招致運動が始まった。これが松山高校創立の発端である。1922年(大正12年)、多くの人々の努力が報われ、埼玉県で第7番目の県立中学校として埼玉県立松山中学校が創立された。1989年(平成元年)には理数科が設置され、現在、スーパーサイエンスハイスクールの指定校になっている。

松山高校といえば、応援団を忘れてはいけない。埼玉県の旧制中学である松山・浦和・川越・春日部・熊谷・不動岡(不動岡のみ男女共学)で六校応援団連盟が結成されているが、松山高校の応援団を一言で表すと『熱い』になるだろう。形よりも気合重視の応援スタイルでまわりを圧倒する。気合が入った応援団に影響されてか、野球の応援は部員、生徒、OBも同様に気合の入った熱い応援が展開される。その盛り上がりは埼玉県内屈指の応援として名高い。 

野球部は1923年(大正13年)に創部され、夏の大会予選には埼玉県内では熊谷、県浦和、県川越、深谷商、不動岡、埼玉師範、本庄に次いで、市川越、所沢とともに1930年(昭和5年)第16回大会予選に初参加した。結果は、県浦和に 8-18 で敗れた。

夏の予選初勝利は、1948年(昭和23年)第30回大会予選で、この年予選初参加の川越農(現・川越総合)に 11-0 で勝利した。

松山高校が最も甲子園に近づいたのは1984年(昭和59年)第66回夏の埼玉大会であった。初の決勝に進出した松山高校を応援しようと集まった人々の数は、生徒、一般人を含め一万人以上となり、熱い応援が展開された。しかし、上尾に 2-8 で敗れ悲願達成はならなかった。その時の3年で5番・一塁手でグラウンドに立っていたのが、現在の瀧島監督である。瀧島監督といえば、1998年(平成10年)第80回大会で久保田智之捕手(阪神)を擁し、滑川(現・滑川総合)を率いて夏の甲子園16強の実績を持つ。瀧島監督の指導のもと、松山高校は着実に力をつけている。

 

いつの日か、甲子園出場を果たして貰いたい伝統校のひとつである。

 

 

 

 

 

以上です。

chat コメント 4

  • 滑川の試合を甲子園で見ました。
    久保田捕手が防具を取ってマウンドに上がる姿に衝撃を受けました。(初戦だったので予備知識がなく、ビックリしました。)

    • 滑川高校には、比企郡のドクターKこと、エース小柳投手がいました。細身でしたが切れのある球を投げていました。個人的には久保田より、小柳の方が好きでした。

  • ゲスト

    20数年前埼玉に住んでいたころ、松山高校は強かったです。
    常に上位に顔を出してましたが、今一つ殻を破れなかった感があります。
    埼玉は高校の数も多いし激戦区甲子園出場は正直厳しいと思います。

    21世紀枠で選抜を狙ってほしいと思います。

    • [Reply cid=9000000002625371 to=225926] 山田ジョージさま

      おっしゃる通り、21世紀枠狙いで甲子園の夢を叶えてもらいたいです。