読んでみた~炭鉱町に咲いた原貢野球

  • 仲本
    2014年06月21日 22:02 visibility1027



「お前たちはさまざまな逆境に耐えて今日まで野球ばやってきた。今日は思う存分暴れろ」

昭和40年8月22日、夏の甲子園大会の決勝戦。一回の裏、攻撃に向かう選手たちに30歳の青年監督は諭すように言ったという。監督の名は、原貢。彼が率いるチームの名は、三池工業高校。

 

三池工業高校はこの時が甲子園初出場だが、当時に至るまで、三池の名はたびたびニュースに登場した。明治から開けた炭鉱の町は、石炭とともに栄え、そして斜陽の道を下りかけていた。昭和34年から35年にかけて、三井鉱山の大規模な人員削減策をきっかけに起こった三井三池争議では、経営者と労働者との闘争に加え、労働者の間でも徹底抗戦派と早期解決派との間で埋めがたい溝が生まれた。昭和38年には炭鉱で爆発事故が発生。死者483人に上る大事故だった。「さまざまな逆境」の背景にはこうした事情があった。

 

もちろん、私自身は当時の試合を見ているわけではないし、後年有名になった「親子鷹」の記憶もない。なにより大阪育ちのわたしとしては、息子ときたら宿敵・巨人の元花形選手。興味もなかったのだが、さすがに中年の域にさしかかって人間丸くなったのと、原貢氏が先日亡くなられたということで、図書館から取り寄せて今回手に取ってみた次第である。

 

原貢氏は佐賀の出身。高校卒業後、いったんは先輩の引きで大学に進んだが中退し、社会人野球・東洋高圧大牟田にスカウトされた。内野手だったが力を持て余したのか、プレーが荒っぽく、控え選手に甘んじた。三池工野球部の面倒を見るようになったのは昭和33年、まだ20代前半だった。打撃でも守備でも走塁でもとにかく自分でやってみせた。万年部費不足の公立校に監督用のユニフォームなどない。仕事帰りにグラウンドにやってくる監督は、シャツやズボンを何着もダメにした。

 

根っからの負けず嫌いだった。勝つための方策はなにか、徹底的に考えた。失敗する確率が高いからとスクイズを嫌った。外野フライを打てる打者を作ったほうがいい。「前で叩くな。ひきつけて、腰を使って打て」、当時のセオリーから外れることなど意に介さなかった。

 

練習の合間にこんな話もした。何事もプライドを持ってやれ。おまえたちが学校を出てどういう仕事に就くか俺は知らんが、肥汲みになっても徹底してやれ。一生懸命やる人間が偉いのだ…。

 

当然、怠慢なプレー、態度には我慢ならなかった。試合前ノックバットをふるっていたかと思うと、突然一人の選手を呼びつけ、ホームベース近くからビンタを食らわせた。選手は気迫に押されてじりじり後退する。気が付けば二人はレフトの芝生の上にいたという逸話が残っている。「当時は今考えたらとてもじゃないけれど、何回出場停止を食らうかわからんかったぐらいです」、後ろに目があるんじゃないかと言われるくらい、選手のことをよく見ていたという。「さまざまな逆境」と言われてナインたちが真っ先に思い浮かべたのは、こういう厳しい監督のもとで練習してきたことかもしれない。

 

発行されたのは2004年と少々時間が経っているが、当時の優勝メンバー、そして本人から取材を重ねた証言は、今となってはよくぞこの時とっておいた、という記録の集成になっている。まだ功なり名を遂げる前、若き日の原貢氏の記録であると同時に、原監督のもとで成し遂げた甲子園優勝という栄光が三池工業ナインのその後の人生にどのような影響を及ぼしたかも描かれている。単なる感動モノとは一線を画す。著者はほかにも野球ノンフィクションを多数書いていることだし、どっかの出版社が文庫に仕立て直してくれればよいのに。

 

(参考:『炭鉱町に咲いた原貢野球』澤宮 優/現代書館/2004)

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