☆早慶戦のはじまり
-
鶴丸 深志’
2023年01月02日 12:00 visibility511
どーもです。
昨年大晦日の紅白歌合戦は、白組が土壇場で見事な逆転優勝を飾りました。
紅白歌合戦で一番印象に残ったのは、桑田佳祐 feat. 佐野元春, 世良公則, Char, 野口五郎が披露した「時代遅れのRock’n’Roll Band」ですね。特に、佐野元春の歌声には感動しますた。短髪にも驚いた。いつの日か、また「SOMEDAY」をレコードで聴いてみたいと思いますた。
佐野元春といえは、第1回夏の全国大会予選参加校で、また、東京と埼玉と違う県の代表として甲子園に出場している立教新座高校出身ですね。
https://labola.jp/blog/user/28237/9000000000015458
さて、紅白戦とは同一のチームを2組に分けて行う試合形式の練習のことですが、ライバル同士の一戦を「○○の早慶戦」と名付けることがあります。
今回は、早慶戦の始まりについて少し勉強してみましょう。
早慶戦の歴史をひも解くと、1903年(明治36年)に遡る。
1903年(明治36年)の11月5日、早稲田大学野球部から、先輩格の慶應義塾大学野球部に挑戦状が送られ、11月8日に慶應がそれに応じる返信を送った。
ちなみに、第1回夏の全国大会関東予選の1回戦・第1試合は早慶対決でした。
【1回戦・第1試合】
1915年(大正4年)3月27日 早大戸塚グランド
慶応普通部 1 0 1 1 1 0 0 =4
早稲田実 2 0 1 0 1 0 1 =5
(7回まで)
https://labola.jp/blog/user/28237/9000000000023111(慶應義塾)
https://labola.jp/blog/user/28237/9000000000018696(早稲田実業)
本題に戻ります。
1903年(明治36年)11月21日午後1時30分、快晴のなか、三田綱町の慶応義塾運動場にて第1回早慶戦が行われ、結果は 11 - 9 で慶應義塾が勝利した。これが、現在も続く「早慶戦」の始まりである。
しかし、1906年(明治39年)、両校応援団が極度に熱狂したため、慶應義塾鎌田塾長が早稲田の大隈重信伯、安部野球部長を訪問し、両校応援団の衝突および危険回避のため、早慶戦の中止を決めた。
その後、1914年(大正3年)、早稲田・慶應・明治による三大学リーグが発足し、1917年(大正6年)には法政、1921年(大正10年)には立教の各大学がこのリーグに加わるが、早慶戦のみ行われない変則的運営であった。1924年(大正13年)頃から明治が中心となり早慶戦復活を打診したが、早稲田側は同意し慶應も現役は歓迎したもの、OB側が難色を示し続けた。
1925年(大正14年)、東京帝国大学(東京大学)が加盟、これを突破口とすべく、明治、法政が中心に「早慶戦復活に反対する者を除外して新リーグを結成する」と強硬な態度を示したことと、慶應主将らの説得もあって、慶應OB側もようやく早慶戦復活を受諾した。かくして、東京六大学野球連盟が創設、早稲田大学戸塚球場にて19年ぶりに早慶戦が復活した。
1925年(大正14年)10月19日、復活した早慶戦の試合前に、安部野球部長は戸塚球場二塁上にて観衆に対し、早慶戦復活と野球の発展、両校の応援が天下の模範となることを訴え、観衆一同は感激し拍手で応えた。
第1回早慶戦の写真を見ると、慶應の帽子は二本線である。明治後半から大正初期にかけて中等學校の野球部においても帽子の二本線を採用しているところが結構ある。
慶應の影響もあったのかしら?
以上です。
- favorite18 chat16 visibility511
-
navigate_before 前の記事
☆青い躍動 ~公立の雄・長崎北陽台~
2022年12月30日 -
次の記事 navigate_next
☆選抜への道 ~高校ラグビー東京都新人大会観戦記 明大中野~
2023年1月29日
- 事務局に通報しました。
chat コメント 件