import_contacts 「高校野球」に関するブログ
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~ダイヤモンド・オンラインより引用~ そういえば、アタシも8年前に夏の予選参加校のうち、春夏合わせて甲子園に1度でも出場した高校は全体の何%になるのかしら? と思い、こんな事を調査した。 https://labola.jp/blog/user/28237/12920026 ダイヤモンド・オンラインの記事によると、昨年夏までに廃校や廃部、師範学校を除くと1,015校が甲子園に出場しているようだ。(改...
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大館鳳鳴高校は1898年(明治31年)に秋田縣第二尋常中學校として創立された歴史を有し、1901年(明治34年)に秋田縣立大館中學校と改称、1948年(昭和23)の学制改革により現校名となる。 校名は大館市内にある鳳凰山に由来しており、全国で「鳳鳴」が名称に入っているのは大館鳳鳴高校と篠山鳳鳴高校(兵庫県)の2校だけである。この両校は友好提携を結んでいる。 大館中學時代の1912年(明治45年)に...
|5年前 -
写真上の盛岡一高は、1880年(明治13年)に公立岩手中學校として創立された歴史と伝統を有する。 野球部は1899年(明治32年)に創部され、岩手県内最古の歴史を誇る(野球はそれより以前から行われていた)。同年には仙台一中との間で対抗戦が行なわれたようだ。 甲子園には夏のみ9回出場し、甲子園通算成績は7勝9敗、最高成績はベスト4進出である。 夏の全国大会予選には、第2回大会予選(東北大会)に県勢と...
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会津高校は1890年(明治23年)に旧会津藩士の尽力により私立会津中学校として開校された。その歴史を遡ると日本で高い教育水準を持った会津藩校「日新館」にたどり着く。 野球部は1899年(明治32年)に創部され、福島県内では安積高校、福島明成に次ぐ歴史を有する。 1959年(昭和34年)には、県勢として初めて春のセンバツ大会に出場した。 夏の全国大会予選には、1916年(大正5年)第2回大会予選(東...
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1784年(天明4年)福岡藩に二つの藩校が開館。その名は甘棠館(西学問稽古所)と修猷館(東学問稽古所)である。開館から14年後、大火により甘棠館は焼失したが、生徒全員、修猷館に編入し、以後福岡藩の藩校は修猷館のみとなる。 修猷館の名は『尚書』「微子之命」から引用された章句「践修厥猷」に由来する。藩校設立から230年あまり一貫して校名に「修猷館」を掲げている。さらに、生徒を「館生」、校長を「館長」、...
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東京・本郷にあった運動具店、美満津商店の店主・伊東卓夫氏が明治後期から大正初期かけて発行した、野球年報を見る機会ができた。 そこには、外国人チームとの試合結果や各地方での試合結果、野球規則、選手の写真も掲載されていた。 中等學校の選手の写真を見ていると、二本線の入った帽子が目に入ってきた。(っていうか、それが目的でしたが) 帽子の二本線といえば、旭丘高校(愛知)は現在も創部からの伝統が受け継がれて...
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令和初となる野球定期戦を観戦したいと思い、学習院大学に向け愛車のレクサスCT200hを走らせた。 観戦したかったのは、ラボーラではすっかりお馴染みとなった学習院高等科と筑波大附属高校の定期戦である。昨年に続き二度目の観戦だ。 両校の定期戦は1896年(明治29年)の野球対抗戦が始まりで、現在は毎年6月の第一土曜日に学校行事として各運動部が競い合う総合定期戦までに発展を遂げている。野球に関しては、明...
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各都道府県内での甲子園初勝利校と甲子園最多勝利校が対戦する試合がないか調べたところ、J:COMスタジアム土浦で行われる春季茨城県大会の準決勝、水戸商業 VS 常総学院のカードが目に留まった。 J:COMスタジアム土浦といえば、2017年7月に改修工事が終了し、収容人数が6,774人から13,240人へと大幅に増えた球場で、今年開催される茨城国体の軟式高校野球の会場でもある。 早速、JR常磐線勝田行...
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元号が令和に変わりましたが、春季千葉県高校野球大会のチケットは平成31年度のままですた。(上が令和のチケット、下が平成のチケット) チケットには、大会第何日目かのスタンプが押され、さらに、開催日ごとに色が変わっていました。当日券で他球場への入場はできません。連日の観戦でも割引等のサービスは一切行っておりません。 令和最初の高校野球観戦は、伝統校と新興校の試合を一度に観たいと思い、先日に続き柏の葉公...
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「幾千年の昔より 海と陸との戦いの 激しきさまを続けつつ 犬吠岬は見よ立てり」 マニアの方はもうお分かりでしょうが、これは銚子商業の校歌である。軍歌調で20秒ほどの短い校歌である。作詞は相馬御風、作曲は東儀鉄笛、早稲田大学の校歌もこの二人によって作られた。 太平洋の荒波が打ち寄せる犬吠埼灯台の下の砂岩は、1億2000万年前の白亜紀に堆積した地層(浅海堆積物)で、当時、この辺りが浅い海だった証拠が見...
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昨年5月に静岡県の磐田城山球場で「訪問球場数200箇所」を達成しました。 しかしそれはあくまでも「訪問の数」で、非観戦の球場も数に入っていました。なのでその後の私的目標は「試合観戦での200箇所達成」になりました。 先日それを無事達成できました。場所は埼玉県の「越谷市民球場」です。↓ これは不思議な偶然なのですが、区切りの球場が所在する県が以下のようになりました。 <訪問> 100箇所目:浜松球場...
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元号が令和に変わる前にどうしても観ておきたいチームがあり、春季高校野球埼玉県大会東部地区予選が行われる越谷市民球場に向け、愛車のレクサスCT200hを走らせた。 観戦したかったのは不動岡高校、勿論、初めての観戦だ。ユニフォームはアイボリーホワイト、左袖には3本のペンを象った校章、胸にはエンジンで「FUDOOKA」と書かれていた。所謂、早稲田カラーのユニフォームで伝統を感じさせる。個人的には、以前か...
|5年前 -
以前から古豪・伝統校巡り(学校見分、または試合観戦)をテーマにしているのですが、時々は「藩校巡り」も行ってきました。今回はその「藩校巡り」の一環となる試合観戦です。 訪問先は福岡県大牟田市にある「延命球場」。寿命が伸びそうな名前ですね。(笑) この球場で高校野球春季福岡大会(2回戦)を観戦しました。そして第二試合にお目当ての学校が登場。「県立伝習館高校」です。 この学校は1824年(文政7年)に柳...
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101回目の夏が来る前に、できるだけ多く各都道府県で最初に夏の予選に参加した高校野球部の姿を観ておきたいと思い、春季神奈川県大会横浜地区予選Cブロックのリーグ戦が行われる希望ヶ丘高校野球部グランドに向け、愛車のレクサスCT200hを走らせた。 観戦したかったのは希望ヶ丘高校、勿論、初めての観戦だ。ユニフォームはアイボリーホワイト、左胸に漢字の縦書きで「希望ヶ丘」、左袖には旧制神奈川中学の略称である...
|5年前 -
101回目の夏が来る前に、できるだけ多く統廃合等によって消滅してしまった甲子園出場校に変わって新設された高校野球部の姿を観ておきたいと思い、春季神奈川県大会横浜地区予選Lブロックのリーグ戦が行われる横浜商業野球部グランドに向け、愛車のレクサスCT200hを走らせた。 観戦したかったのは、横浜市立横浜サイエンスフロンティア高校、勿論、初めての観戦だ。ユニフォームは襟付きの白地で、胸には爽やかな水色で...
|5年前 -
春の選抜高校野球大会より一足早く、土曜日から春季高校野球東京都大会一次予選が始まった。 世間は「春はセンバツから」と言いますが、ここ数年、アタシの場合は「春は春季高校野球東京都大会一次予選から」になっています。 早速、ラボーラではすっかりお馴染みとなった修徳高校野球場に向け、愛車のレクサスCT200hを走らせた。 観戦したかったのは中央大学附属高校、勿論、初めての観戦だ。ユニフォームはアイボリーホ...
|5年前 -
3月15日に第91回センバツ高校野球大会の組み合わせ抽選会が行われるが、一足早く春季東京都大会の本大会と一次予選、神奈川県大会ブロック予選の組み合わせ(一部?)が決定している。 春季東京都大会には、昨年の秋季東京都大会に出場した64チーム、一次予選のトーナメントを勝ち抜いた48チーム、計112チームが出場する。 過去にも記述したが、東京の一次予選で注目すべき点は、東京の予選なのに埼玉で試合が行われ...
|5年前 -
平成最後のセンバツ大会が始まる前に、甲子園常連校かつ強豪校の甲子園出場を祝う垂れ幕は、新調しているか使い回しかを検証してみた。 アタシの仮説は、初出場や前回出場からブランクのある高校は新調する(第○○回○○大会まで入れる)、常連校は基本的には使い回しで劣化等のタイミングで新調する(経費削減等)である。 向かった先は、神奈川県の東部に位置する同県の県庁所在地で、政令指定都市であり、18の行政区を持ち...
|6年前 -
茨城県のほぼ中央に位置し、東京から約70km、成田空港からも約70km、市内には国道6号や常磐自動車道、JR常磐線も通っており特急で品川まで約1時間少々、市のほとんどは平坦で、西から北にかけて筑波山などの山がつらなり、1級河川の恋瀬川のそそぐさきには日本第二の湖である霞ヶ浦が広がり、明治の末まで遡ると水戸市に次ぐ人口を有し、商都として商業と醸造・製糸などの産業が大いに栄えていた石岡市に、石岡一高が...
|6年前 -
山陰に野球が伝えられたのは、わが国にはじめて野球が紹介されてから20年を経た明治26年ごろのことである。当時、第三高等学校(京大の前身)の岸崎昌、志立悌之助、高橋慶太郎らが野球を覚え、夏の休暇に帰省して、母校の第一中学(松江北)の寄宿舎生に教えたことに始まったといわれている。 千鳥城二の丸練兵場で、棒切れと丸いゴム玉によって始められた野球も、明治31年になってようやく組織的なものに成長した。この年...
|6年前