import_contacts 「僕の甲子園物語」に関するブログ
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<写真> こうしてK高校を巣立ったS君は京滋大学リーグに所属する大学の野球部に入り、今もピッチャーとして活躍している。 京滋大学リーグは現在佛教大学が頭一つ抜け出した強さを誇っている。 佛教大学にはS君の一つ上の先輩でショートを守っていたN内野手も所属している。 先日、僕が見に行った試合では敵味方に分かれてしまった二人を見て複雑だった。 当の両選手にとってはその気持は僕以上にあると思う。 しかし、...
|14年前 -
<写真> こうして、S君とK高校3年生の高校野球は終わった。 近江高校との決勝戦の後、しばらくして先発したT山君らは火事の消火作業に協力して地元の新聞に載った。 その勇気は大いに讃えられた。 近江高校の小熊投手は甲子園では堂々としたピッチングを見せた。 僕には皇子山球場で見たときとは別の投手に見えた。 こうして夏が過ぎていった。 秋の県大会、K高校は準々決勝で近江高校を4−3で破った。 K高校が近...
|14年前 -
<写真> 薄曇の空の下、K高校と近江高校の決勝戦が始まった。 ほぼ満員のスタンド・・・プレイボールの前、スタンドで思いがけない懐かしい人に出逢った。 本当に甲子園をかけた県予選の決勝は、地元の人たちにとって大イベントだということを再認識した。 さて、近江高校の先発は小熊投手(現中日ドラゴンズ)。 この日が公式戦初先発である・・・って大丈夫か?!と思うが、この試合を見ている時はそんなことは知らなかっ...
|14年前 -
<写真> 春夏甲子園連続出場を目指すK高校は夏の予選準決勝まで勝ち進んでいた。 僕は土曜日の準決勝を見るために皇子山球場に足を運んだ。 僕の仕事は土日休みと限らないのだが、その期間はたまたま土日の休みが続き、試合を観にいけたのだ。本当に幸運だった。 準決勝の相手は春の県大会覇者彦根東高校。 文武両道の誉れ高い名門校だ。 純白ではないちょっとくすんだ色調のユニフォームが風格を感じさせた。 K高校のマ...
|14年前 -
<写真> こうして、無念のセンバツ初戦敗退となったK高校。 僕はS君にメンタルトレーニングの本を送った・・・何と言う無神経な!と今では思いやりのない自分の行動に腹が立つが、ずっと後で礼儀正しいS君はその本のお礼を言ってくれた。 K高校はその後苦しんだ。 春の県退会はベスト8止まり。 もちろん、県の8強だから好成績には違いない。 しかしK高校の本来の力からすると不本意としか言えない。 この時の優勝は...
|14年前 -
<写真> K高校と大垣日大の試合の日、僕は仕事だった。 家で試合の模様は録画していた。 結果をニュースで知って、録画を見たが20分ほどで再生を止めてしまった。 その後、1度も見ていない・・・。 その試合の先発は、なんとS君だった。 映像で見たS君は、僕が知っている限りのS君より、少し、ほんの少しだけだが顔が青ざめて見えた。 初回、いきなりの四球。 そこから二つのエラーで1点奪われた。 初回が終わる...
|14年前 -
<写真> こうして2年連続2回目のセンバツ出場を決めたK高校。 もちろんS君も載ったセンバツの特集雑誌が何種類も店頭に並ぶ。 センバツは国民の関心行事・・ということを改めて認識する風景だ。 S君は秋の大会はチームで一番長いイニングを投げてセンバツ出場に貢献したんだな・・・というようなことも雑誌のデータを見て分かった。 また、地元の新聞はセンバツ出場が決まった時から、内容や紙面を割く量にこそ差があれ...
|14年前 -
<写真> こうして2年連続の近畿大会出場を決めたK高校。 和歌山県紀三井寺球場で熱戦が繰り広げられた。 大事な緒戦の相手は郡山高校。奈良の名門。 K合投手の投打に渡る活躍で4−2で勝利。 S君は1回3分の1を抑えて見事なリリーフを見せた。 センバツ出場を確実にするにはあと一つ、あと一つ勝たねば。 相手は全国にその名を知られた強豪、東洋大姫路。 先発は・・・S君だ。 しかし、さすがに私立強豪の打線は...
|14年前 -
<写真> こうして、K高校と滋賀学園の試合は延長戦に入った。 K高校は1年生投手K合君が僕の「教え子」S君をリリーフ。 対する滋賀学園のF投手は1人でマウンドを守り続ける。 両チームともランナーは出るがなかなかホームに届かない。 こうして延長15回に達した。 先攻の滋賀学園、この回も得点ならず。 15回の裏。ここでK高校も無得点なら引き分け再試合である。 F投手、球威は落ちながらも粘り強くK高校打...
|14年前 -
<写真> こうして、S君も僕もそれぞれに苦しい夏を終え、身につけた力を発揮する秋を迎えた。 とはいえ、僕は実習を終えて週5日働き2日休む・・・という生活に戻っただけなのだが。 S君の所属するK高校は県の秋季大会緒戦から順調に勝ち、3回戦を迎えた。 僕は3回戦が皇子山球場で行われることを確かめると、電車に乗って出かけた。 K高校を応援するためである。 無論S君がマウンドに立つかどうか分からない。 で...
|14年前 -
<写真> こうして春のセンバツ初出場そして初勝利を果たしたK高校は4ヵ月後の夏予選は初戦敗退という予想だにしなかった結末に終わった。 しかし、どの高校にとっても、夏の予選の終わった翌日からは春のセンバツに向けての挑戦の日々と化す。 K高校も始動した。 目指すは2年連続の春のセンバツ。 しかし、高い目標を果たすには、必定苦難の道のりが伴う。 ここにK高校地獄の練習試合の夏が始まった。 7月31日の東...
|14年前 -
<写真> こうして甲子園初勝利を上げたK高校。 しかし、僕の「教え子」S君は出場の機会を得られなかった。 試合がある程度進んでからは、ずっとブルペンで投げていた。 その姿を見られただけでも良かったのだが、やはり残念だった。 オレンジの鮮やかなグラブを右手につけて、ブルペンで肩を作るS君。 緊張のせいか、たまに返球を落としてしまい、帽子を取ってキャッチャーを務めてくれている先輩に謝っていた。 試合の...
|14年前 -
<写真> センバツ初出場のK高校の先発投手は・・・秋季大会で大阪桐蔭に投げ勝った軟投派左腕S田投手背番号10!! スタンドから期待の歓声が上る。 ここ一番の勝負度胸をかわれての起用だろうか。 K高校ナインは試合前の儀式だろうか、全員が人差し指を天に突き立てベンチの前でAキャプテンに駆け寄る。18人の選手の密集はさながら火山島の噴火のようだ。 「ウォー!!」 甲子園に燃え滾る選手の雄たけびがこだまし...
|14年前 -
<写真> こうしてK高校のセンバツ初出場が決まり、僕は心躍る日々を過ごしていた。 しかし、その頃、仕事がうまく行っていなかった。 職場で一緒に仕事をしている人たちとの信頼関係を僕がうまく築けなかった。 信頼関係が築けなかった・・・と言っても最初は些細なことがきっかけだった。 徐々に綻びた穴が大きくなっていった。 そんなことが2年ほと続いていた中で、ついに僕にとって忘れられない日がきてしまった。 僕...
|14年前 -
<写真> こうして、S君の高校野球最初の夏は終わった。 しかし、秋の大会でのK高校の戦いぶりは素晴しかった。 夏の予選1回戦敗退の悔しさを晴らそうとするかのようだった。 特に、S君の一つ上の先輩投手陣の頑張りには目を見張るものがあり、近畿大会出場をかけた県予選は準決勝で敗れたものの、3位決定戦を制して近畿大会出場を決めた。 正直、僕はS君がエースとして据えられていないこの時のK高校の健闘には複雑な...
|14年前 -
<写真> こうして僕はS君の家庭教師を辞し、就職した。 S君は中学3年生になった。 それからもメールでS君のチームの戦績などを聞いていた。 夏に全国大会出場が決まった時は、S君に 「見に行っていい?」 と聞いたが、 「遠いですから、また結果報告しますよ」 とメールが帰ってきた。 それから僕も仕事が忙しくなった・・・というか、「社会人」というものに馴染めず、野球どころではない泥沼の日々を送っていた。...
|14年前 -
<写真> こうして、僕の「勉強を教えずモチベーションを上げる家庭教師」は続いた。 楽しい野球の話は授業時間90分のうち、80分にまで及ぶというやり過ぎ状態が続き、S君の成績は一向に上昇カーブを描くことはなかったが、ご両親は苦情の一つも言わず僕に任せてくださった。 これには今だ深く深く感謝しています。 本当に楽しい日々だったのだが、悲しい現実があった。 僕は野球経験者ではない。 だから、S君の野球の...
|14年前 -
<写真> こうして、僕は勉強を教えない野球談話専門の家庭教師になったのだが、家庭教師にとって怖い怖い行事が年に何回かある。 そう、定期試験だ。 一学期中間惨敗・・・期末壊滅・・・。 僕は自分の存在価値を疑い始めた。 「僕が家庭教師でいいのだろうか?もっとS君に勉強を教えられる家庭教師って他にいるんじゃないのだろうか?S君が高校に行けなくなったらどうしよう。S君だって行きたい高校はあるに決まってるん...
|14年前 -
<写真> こうして、S君の家庭教師を務めることになった。 S君は中学に入学し、中学の野球部ではなく硬式野球のチームに入った。 はっきりと高校進学後の甲子園を見据えた選択だった。 しかし本当にS君が勉強してくれないことには閉口した。 「先週出した宿題は?」 「先生、それなんですが、机の上に置いておいたら、風が吹いてきて、飛んで行きました・・・」 「・・・・」 こんなやりとりが何度もあった。 また家庭...
|14年前 -
<写真> 教え子・・・とか偉そうに言ってしまっていいのだろうか。 しかし、僕には甲子園に出場した「教え子」がいることは事実である。 僕は22歳で大学を出た後、つまらないいきさつからニートになり、25歳でようやく社会復帰を決意した。 この間、野球を観るのにも罪悪感があったが、グリーンスタジアム神戸で見たイチロー選手は我がニート時代の数少ない光明だった。 それはさておき、、就職活動は全敗し、やはり資格...
|14年前